スローライフ・フォーラムinとなみ野全体会シンポジウム

2010年11月14日のシンポジウム前半の記録です。
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***休憩***

パネルディスカッション
コーディネーター 増田 寛也(野村総合研究所 顧問)
パネリスト 神野 直彦(東京大学 名誉教授)
石井 隆一(富山県 知事)
丸岡 一直(元秋田県二ツ井町 町長)
坪井ゆづる(朝日新聞論説委員・編集委員)
斉藤 睦(地域総合研究所 所長)
(司会) 皆さま、おそろいでしょうか。第二部はいよいよパネルディスカッションでございます。もう既にパネリストの方々がおそろいでございます。皆さまのご紹介はお手元のパンフレットにあるということで、これ以上のご説明をしないまま、お名前だけお呼びさせていただきます。
パネリストの、まず最初が神野直彦さん、ただ今ご基調講演をいただきました(拍手)。よろしくお願いいたします。そしてご存じ、石井知事でございます、よろしくお願いいたします(拍手)。そして三つの分科会、それぞれコーディネーターがいらっしゃいました。今日は秋田から夜行列車に乗ってやって来てくださっております丸岡一直さんです、よろしくお願いいたします(拍手)。丸岡さんは二ツ井町長の時代に大変アイデアに富んだいろいろな施策を出されまして、「全国恋文コンテスト」などは話題を呼んだものでございます。そして朝日新聞の坪井ゆづるさん、論説委員で編集員でいらっしゃいます(拍手)。斉藤睦さん(拍手)。斉藤さんはずっと昔からスローライフ運動をご一緒にやってらっしゃる方でございます。そして今日のコーディネーターは、私どものスローライフ学会の会長でもあります増田寛也さんです(拍手)。岩手県知事時代には「がんばらない宣言」というのをされて、本当に全国的に話題になった「がんばらない宣言」、今でも覚えております。
このような皆さま方にこれから語り合っていただくわけですが、パネルディスカッションが始まる前に、私どもスローライフ・ジャパンが全国でこのようなスローライフ運動をしてきたわけですが、今日ここに至るまでの経緯を、スローライフ・ジャパンの理事長である川島正英から少しご説明をさせていただきたく思います。お願いいたします。
(川島) 紹介いただきました、このフォーラムをお手伝いしておりますNPOスローライフ・ジャパンの川島でございます。
NPOの私たちと、スローライフ学会は、これまでいろいろな形でスローライフの活動をやってまいりました。そして年に一度、こういう形の非常に大型の、三日間かけたスローライフ学会というものを開いてまいりました。一昨年は鳥取で環境問題を論じ合いました。これは環境サミットが北海道で行われましたが、その後、環境をテーマに鳥取でやりました。昨年は兵庫県の淡路島、このテーマはそのものずばり「島に学ぶ」ということでした。そして今回、今年は一転して山にやってまいりました。となみ野にやってまいりまして「『住まう』を考える」ということで私たちのフォーラムをこういう形で開いたわけです。
このとなみ野でなぜこの「住まう」を考えるのかということは、先ほど神野先生が非常に素晴らしい話をしていただきましたのであまり多くを申し上げませんが、となみ野というのは、やはり住まう文化という意味では、日本でも非常にシンボリックなところではないでしょうか。合掌造り、そして散居村、あずまづくり、そういったものを非常に長い歴史の中で農を絡めて、そして過疎の中でここまで育て上げてきました。自然と闘い、それに溶け合いながら素晴らしい景観をつくり、そして知恵と工夫で楽しい暮らしというものを今も実現してこられたわけです。そういったところに、私たちは全国的にもっとこのとなみ野を知ってもらって、それで、今、まさに危機に瀕しようとしているこの「住まう」ことの文化が失われていく、そういうものをいかに守るかを考えたいというのが趣旨でございます。
私たちの初代のスローライフ学会会長の筑紫哲也が、この「住まう」について、先ほど石井知事から筑紫哲也の本の紹介をしていただきましたが、岩波新書で『スローライフ――緩急自在のすすめ』という本を書いておりますけれども、その15章のうちの1章を「住まう」について彼は語っているわけです。これはむしろ彼が語るというよりは、ウィーンの建築家であり画家であったフンボルト・バッサーという方の話を、彼は何回も会って話し合いながら、日本の「住まう」ということについても考えて、この本の中でも書いています。
家というのは人間の第三の皮膚である。第一の皮膚、第二の皮膚、そして第三の皮膚であると。しかも、家というのは人間を映す鏡であるということを、そしてさらに進めて、日本の住まいについて、日本ではわれわれがこれからいかに暮らしていくかということを、既に過去にそれを示しているとフンボルト・バッサーは言ったそうです。そして、日本の「住まう」文化を持った素晴らしいものを、「小さなパラダイス」という言葉を使っていますが、そのパラダイスを日本の近代は壊しつつあると。壊されてきている、壊してきているということをフンボルト・バッサーは言っているわけですね。そして筑紫哲也もその説を紹介しながら、彼もまさにそこが今の日本が最も考えるべき住の問題ではないか、暮らしの問題ではないかということを言ったわけです。
この筑紫哲也は、もうこれ以上申し上げませんが、彼は2年前にご承知のように亡くなりました。11月7日です。1週間前が彼の命日なのですが、ひそかにこの今回のフォーラムは、筑紫哲也の三回忌の私たちから手向けたい一つのフォーラムにしたいと、これは私個人的な願いでありますが、そう思っております。筑紫哲也の後のスローライフ学会の会長を、先ほど野口から紹介しましたように増田さんに引き受けていただきました。岩手県知事時代のスローライフに対する一つのいろいろな考え方を実践してこられたわけですし、総務大臣として地方分権などの問題にも非常に取り組んでこられた増田さんにコーディネーターをお願いし、そしてあとのパネラーの方も、石井知事を除きまして全部NPOスローライフ・ジャパンの理事をやっていただいております。
そういうことで、私としては非常に大変な期待を込めながら、この経過報告とさせていただきます。どうもありがとうございました(拍手)。
(司会) それでは、この後は増田さんにお願いいたしましょう。よろしくお願いします。
(増田) 皆さん、こんにちは。ご紹介いただきました増田でございます。
いよいよ全体会ということですので、今、川島さんからも今までの流れについてお話がございましたが、このパネラーの皆さん方とともに「富山新時代――『住まう』を考える」ということで、この後4時半までですが、いろいろ皆さん方でディスカッションしていきたいと思っております。
この「住まう」、先ほどの神野先生のお話でも、「う」というのは「継続する」「反復する」「生を共にすること」ということでしたが、そのことについて一番ふさわしいとなみ野のこの部屋の中で、こういうディスカッションができるというのは私も大変うれしく思っているところです。
そこで、一昨日、昨日と三つの分科会がありましたので、初めにそれぞれの分科会のコーディネーターの皆さん方、すなわちこの今日のパネラーのお三方にもなりますが、その皆さん方からお一人5分ぐらいを見当に、それぞれの分科会の内容をまず皆さん方にご紹介していただきたいと思います。
一昨日、12日の金曜日に利賀分科会がありまして、こちらは「地域の魅力と活力が交流をつくりだす」というタイトルの下に活発な議論が行われました。後ろのプロジェクターの方にそのときの様子をスライドショーのような形で映していきますが、それも少し横目で見ながら雰囲気を皆さん方に感じ取っていただきたいと思います。
それでは、利賀分科会のコーディネーターをされた丸岡さんの方からご紹介をお願いいたします。
(丸岡) 秋田県から参りました丸岡といいます。私は約13年間ですけれども、4年ほど前まで二ツ井町というところで町長をしておりました。
二ツ井町が少し世の中に名前が聞こえたのは、その町の名勝である「きみまち阪(ざか)」という公園がありますけれども、それの名前が付いたエピソードを基にした恋文コンテストをやったということと、二ツ井町では当時下水道の計画がありましたけれども、これをやめてしまいました。下水道は非常にお金も掛かるし時間もかかるし、下水道をつくる目的は水をきれいにすることと生活環境を良くすることですので、それは下水道ではなくても今は合併浄化槽というものでできるということで、町全体を浄化槽で下水対策しようとしました。そういうことが幾つか話題になった、白神山地の南側の町です。
私が報告しますが、最初10分間の予定でしたが、5分になりました。
(増田) それでは間を取って7分ぐらいでいけますか。一応めどで、少し巻きで、早めによろしくお願いします。
(丸岡) 分かりました。
今回こういうコーディネーターという役目は少し私には重い仕事でしたけれども、お引き受けしたのは、富山に来られるということが第一の理由でした。それは私は若いときに学生時代を東京で過ごしましたが、そのとき寮に入った隣の部屋の男が富山県の八尾の出身で、いつかは八尾へ行くという約束を果たせないまま時間が過ぎてしまいました。それで今回富山に来られて、ある意味その約束を果たせて良かったなと思いました。
私たちは富山の駅から八尾を通って、利賀村へ行って分科会をいたしました。利賀村では利賀芸術公園という非常に素晴らしい演劇の空間を拝見しましたし、また合掌の集落も見学をさせていただきました。それから、そばづくりを通じてスケールの大きい地域活動をしておられる。また、瞑想の郷ということで、国際交流もしながら地域づくりをやっておられるということで、私の二ツ井町も過疎の町ですけれども、そういう立場から見ても大変素晴らしい活動をされているということがよく分かりました。
そういう活動をされている地元の方から最初にお話を聞こうということで、利賀村で非常に中心的に今まで地域づくりをしてこられた中谷信一さんという方のお話を伺いました。その中谷さんの話では、利賀村も多いときは4000人を超える人口だったのが、昭和40年代には半分になってしまいました。そこで非常に危機感を感じて、その後約40年間にわたって地域活動をしてこられたということでした。それは自分たちがこのままでは大変だという思いから、幾つものそういう活動をしてこられたのですけれども、それは非常にすごい仕事を幾つもやっておられて、私たちから見ると本当にうらやましいようなものですけれども、幾つもの仕事をした結果、でも人口の減少が止まりません。いまだに、鈍化はしたけれども人口の減少が止まらなくて、決め手がないということにお悩みのようでした。それでもそういう大きい仕事を幾つもやられて、最近は地域地域をといいますか、中谷さんがお住まいの地区で「上畠アート」という、地域で個人個人が小さな活動をするようなことも始めて、そういうことがこれからの交流を深める新しい方向になるのではないかというようなお話でした。
それから、続いてはそういう利賀村に東京から移り住んだ人がいるということで、畠山芳子さんという方の経験をお話ししていただきました。畠山さんは東京の武蔵野市に住まわれて、市会議員も地元でされて7期28年間議員をされて、副議長もされていたのですけれども、還暦になった60歳を契機に利賀村に移り住んだという経験をお持ちでした。
畠山さんは東京しか知らない自分ということをどうかなと思っていたことと、利賀村と武蔵野市が自治体の交流をしていて、子供たちを利賀村へ連れていくというような活動をしていた経緯があって、利賀村に非常に夢や希望というものがあり、ご自分が都市に住んでいて足りないものがきっと利賀村にあったということだと思いますけれども、60歳を契機に何か違う人生を歩もうというときに、迷わず利賀村へ移住することにしました。それは、利賀村が夢やロマンに非常にあふれていて、それから当時の村長さんが非常に格好良かったということもあったようですけれども、武蔵野市の立場で利賀村へ行ったときに、何か行事があったそのステージで、私は「利賀村へ行きます」と宣言してしまって、その言葉どおり実行をしてきたということでした。
来てみると、畠山さんの立場から見ると、利賀村には本当にいいこと、いいものがたくさんあって、あるいはいい人もたくさんいて、村の中にあるさまざまなエネルギーが自分を元気にさせてくれるということを感じられたし、東京だと体を鍛えるためにスポーツクラブなどに通わなければいけないのが、利賀村にいると雪かきで体力づくりがただでできるというようなこともお話しでした。
今までは個人としてそういうことをしてきたのですけれども、依然として村は厳しい状況にあるということで、これからは自分一人ではなくて地域を磨いていくということに、そういう社会的な活動にも頑張って力を入れていきたいということをお話しでした。
次に、ではそういう地元にお住まいの方とは別に都会に住んで、都会の人の発想で地域とかかわりを持つようになったという立場から、大和田順子さんという方にお話しいただきました。大和田さんは最近、私も何となく耳にするようになりましたけれども、「ロハス」という生き方を提唱している方です。大和田さんご自身は大手の百貨店、スーパーなどに勤められて、いわばスローライフとは対極の大量消費を勧める側に最初はいたのですけれども、その中でいろいろと疑問を感じて、次第に環境のこと、あるいは地域のことに関心を持たれるようになったということです。
ロハスという生き方は健康と環境を大事にして、健康な人をつくる、あるいは健康な地域をつくる、そういう運動を提唱しています。最終的には持続可能な社会の実現を目指すというのがロハスの考え方でして、ご自身もそう言っているだけではなくて、日本のいろいろな各地へ出掛けて、その地域の農家、あるいは有機農業の方、そういう方々と連携をしながら運動を続けておられるということです。
大和田さんのお話で会場が皆喜んだのは、最近の都会の若い女性が、どうも農村部の無口で頑張る男性に非常に魅力を感じるようになっているということです。都会の若い女性も、一面では会社でなかなか女性が評価されない、あるいは地球温暖化のこと、あるいはこれから石油が枯渇していくという状況で、それぞれ自分の立場で不安を抱えています。そういうときに、黙々と、あまりたくさん口は言わないけれども、当たり前のことは当たり前のようにしっかりやっていく、そういう農村の男性に魅力を感じて、できればお嫁に行きたいぐらいの人も結構増えているのだということです。これはお嫁さんがなかなか来ないというのが農村では全国で共通した問題ですが、そういうことに非常に明るさというか、われわれにとっても勇気が出るようなお話でした。
そういうことをまとめてといいますか、そういうことを国の立場でどうお考えかということを、国土交通省の政策課長である渋谷和久さんがお話ししてくれました。その中で非常に関心を呼んだというか、みんなが興味を持ったことは、国の段階でこれから「新しい公共」ということが鳩山内閣以来、考え方として出されてきています。新しい公共というのは、きっと古い公共が大方公共事業をやって、国が補助金を付けて県や市町村がそれを利用して仕事をするということかと思いますけれども、新しい公共ではそういうことではなくて、もう少しお互いがフラットな関係で仕事をしていく、そういう仕事の仕組みを新しい公共と言っているようです。その中で「二地域居住」、二つの地域に住む二地域居住をその考えの中心にしていきたいと。都市にも住むし、田舎の暮らしも楽しむ、そういう二地域居住ということを国としてこれから取り上げていきたいということです。具体的にどうということはこれからなのだと思いますが、都市の生活も成立させて、地方の暮らしも成立させる、あるいは交流をもっと深めるということで、二地域居住ということにこれから力を入れていきたいということをお話しされて、非常に興味深いお話でした。
最終的には、非常に困っていることはあるのですが、利賀村にさまざまないいこと、資源的な可能性、あるいは人の良さというようなことがあり、それを自覚している部分もあるし、自覚されていない部分もあります。それをこれからもっともっと見つけて磨いていくということで、今困っている状況の改善の方向が見えてくるのではないでしょうか。
そういうことで、利賀村の分科会は終わりました。そういうことで、大変皆さんに熱心な話をいただいてお礼を申し上げたいと思います。以上です。
(増田) ありがとうございました。
それでは昨日二つ分科会がありましたが、井波の方の分科会「美しく楽しく過ごす技と祭りと味と」、これは私もずっと聞かせていただいたのですが、坪井さんの方からこの分科会の内容についてご報告をお願いします。
(坪井) 井波分科会の報告をします。
県外から来たメンバーは、まず井波に着いて瑞泉寺を見学し、ボランティアガイドの方に事細かくご案内していただいて、素晴らしい彫刻を目にしました。本当に正直言って、こういうところと言うと失礼ですけれども、あれほどのお寺があるということに非常に驚きました。
その次に散居村に実際に行ってみるということで、分科会のパネリストにもなっていただいた杉森桂子さんのお宅にお邪魔をしたのですが、そこでいろいろ見聞きするにつけ、驚くことばかりでした。まず杉森さんのお宅は、300人ぐらい入れるのだそうです。行った人間がぶしつけに「部屋数はどのくらいありますか」と聞いたところ、指折り数え始めて、12か13かだということでした。私どものように、私は特にそうですけれども、東京で80平米以下の長屋に住んでいる人間からすると、部屋数は幾つかと聞かれたすぐ答えられるものですから、その違いの大きさにはっきり言って驚きました。
それで分科会に入ったわけですが、分科会の中でまず杉森さんから、このタイトルを見ていただいても「美しく楽しく過ごす技と祭りと味と」ですから、どのような話になるのかと思いましたが、杉森さんがおっしゃっていたのは、もともと自分たちでつくっているものも、実は地元の人もあまりよく知らないという状況があるのですということで、そういう形でのまちおこしといいますか、町の活動に携わるようになりましたというお話でした。
それで、一人で黙々と作物をつくっていくという農業をやっている人間としては、それはそれでいいのですが、基本的に多くの人とかかわる、農業を通して人とかかわるということが大変楽しいというご経験がおありで、「帰農塾」という農業に帰る塾のアテンドをされていて、二泊三日で朝5時に起きて農作業をするなどということを一緒にやっているのだそうです。自分もそういう形で人と触れ合うことが楽しいし、やっていて、黙々と作業をするよりも楽しいのですと。そして自分も楽しみたいのだということをおっしゃっていて、確かに元気のいい女性であるということがよく分かりました。
しかし「住まう」について考えなければいけないわけで、私の方から、少し意地悪いのですけれども、12も13もある大きな家に、昔は三世代四世代は当たり前だったのですが、今は杉森さんのお宅も4人で暮らしていらっしゃるとお聞きしましたので、大きすぎませんかと、掃除が大変でしょうという意味も込めて「大きすぎて大変ではないですか。困りませんか」と水を向けたところ、「とんでもない」と。杉森さんは、天井が高い家で育てば育つほど子供は賢くなるということと、空間が人間を育てるのだと、だから大きすぎて、年に一度も使わない部屋があっても何も困ることはないのだと。空間が人間を形成すると言われると、私のような長屋暮らしはどうなるのだと思いながら聞いておりましたが、基本的にそういうことをピシッとおっしゃっていただきました。
もう一人の地元のパネリストは、井波の彫刻をやってらっしゃる岩倉雅美さんです。岩倉さんによると、私は全然知りませんでしたが、井波の彫刻をやってらっしゃる職人さんは問屋がないのです。自分で注文を取ってくるし、お客さんと相談してデザインも決めるし、それを自分で彫って、それを梱包して発送するところまで自分でやるのだということをおっしゃっていました。問屋があって販路を開拓してくれるという世界ではないので、それこそ観光客が来ても、非常に気さくに対応されているということでした。
それで、井波には今200人ぐらいの彫刻をなさっている方がいらっしゃるそうですが、日本全国で彫刻をやりたいというとここしかないということのようです。ですから北海道などからもみえて、居着いていらっしゃる方もいらっしゃるというお話でした。杉森さんのおうちが大きい大きいという話をしていたら、岩倉さんのおうちも相当に大きくて、100人は入れるよという話をしていただきましたが、家の中で工夫されているのが一つあって、家族が1日1回は顔を合わせるような、どれだけ大きな家でも居間を通ってしか子供部屋に行けないとか、そのような形で工夫をしていますということをおっしゃっていました。
もう一つ、後継者を育てなければ伝統産業はつぶれてしまうということで、いかに後継者を育てていくかということを苦労されているようですが、やはり最近は人の集まりが昔ほどは良くなくて、彫刻の在り方も転換期に入りましたと言われてもう20年たってしまっている。それでどうしようかと、まだ暗中模索しているということを正直におっしゃっていただきました。
もう一人のパネリストは、これは東京からお招きしましたが、総務省の過疎対策室長の藤田さんという方です。藤田さんがまず指摘されたのが、藤田さんも一緒に杉森さんのお宅や瑞泉寺などを回ったのですが、東京からの視点で言うと世代間の絆といいますか、富山においては世代間の絆が固くあり、都会は世代間が断絶してしまっている。それに比べて富山は素晴らしいですねという、率直な印象を語っていただいてお話をしていただきました。過疎対策室長ということなので過疎法の話などもしていただいて、この春から過疎法が変わりましたというご紹介もありました。
そもそも過疎法、基本的には南砺市はみなし過疎といいますか、過疎に近い状態にあるというふうにして対象になっているようですが、それまでは道路やハコモノなどのハードしか使えなかった過疎債が、ソフトにも使えるようになりましたということで、景観の維持や空き家の改修などにも使えるようになりましたとPRされていました。
その中で面白かったのは、過疎債の使い方が、首長と議会だけで決めて持ってきても、いまいち物足りないので、住民の方、NPOの方としっかり協議して計画をつくってくださいということをおっしゃっていました。
また、今B級グルメが全国的にブームですけれども、味によるまちおこしの事例紹介として、埼玉県秩父市で農業高校の子供たちがメープルシロップをつくって、それを埼玉大学で広げて、県も協力しているというお話もありましたし、長野の木曽福島においては、木曽の保存食をいろいろな形で紹介していくときに朝日新聞のOBだった記者が協力しているなどという、ジャーナリズムを巻き込んでの作戦をしているというお話もご紹介されました。
さらに、いわゆるよく言われる話ですけれども、まちおこしでは「ばか者・若者・よそ者」という言い方をしますが、藤田さんは中でもよそ者の視点というのが大事だろうということで、総務省が集落支援委員や地域おこし協力隊をやっていますというPRもしていただきました。
そして最後といいますか、もう一人のパネリストは、島根県立大学の名誉教授である田嶋義介さんという方に来ていただきました。田嶋さんは島根の海士町という離島の町のまちおこし、そこには100人を超える人がIターンで帰ってきています。トヨタを辞めてきましたなどという人がいらっしゃって、自然の中で暮らしたいという価値観で人が増えているという事例を紹介していただきました。
そしてもう一つは、鳥取県境港市は、『ゲゲゲの鬼太郎』の水木さんの鬼太郎ロードだか道路だか、鬼太郎たちが並んでいる道路に年間200万人の人が来るのだという話をしていて、そこで田嶋さんがどうも世の中の価値観が大きく変わっているのでしょうと、鬼太郎ロードに200万人来るということを、時代が変わっているという視点で分析していただきました。
それで田嶋さんがおっしゃったのは、例えば富山県は07年と08年の2年間で、65歳以上の人口が1万2529人増えました。けれども、生産人口の15歳から64歳は1万8000人減っているという形です。これを全国に目を向けると、07・08年の2年間だけで、働き手が日本で全国では富山県の1.3倍の人口が消えているということをお話しになりました。その中でなるほどと思ったのは、従来は家屋、家ですね、あと車、家電製品、衣、衣類ですね、この4Kが在来型の需要だったのですがこれが減っていって、これからは観光・環境・健康・介護という新しい4Kの需要が増えていくという視点でした。日本人の考え方が変わってくる中で、田嶋さんがおっしゃったのは、基本的に田舎の、つまり今申し上げた観光・環境・健康などが田舎の価値を上げていっていますというお話をしていました。そういう形で時代が変わり目にあるという指摘をいただきました。
こういう意見を踏まえてさまざまな議論をしたというところです。
(増田) どうもありがとうございました。
今の分科会は先ほども言いましたように私もずっと一緒にさせていただいて、今日も会場に杉森さんが来ておられるようですけれども、杉森さんのあずまだちのお屋敷に私も上げていただきました。私も180cmを超えて結構長身のつもりなのですが、やはり天井が高くて、本当に伸び伸びできるような感じでした。私は大学を出て最初は役人になりまして、それで結婚して公務員宿舎に入ったのです。当時の公務員宿舎は、あれは多分建て替わったはずですが、一番古かったものですが、私が手を伸ばしてちょっとつま先立ちをすると、ちょっとジャンプをするとすぐ天井に付くという、非常に圧迫された窮屈な空間にずっといました。昨日のお宅の高さ、お話をお聞きしていたら、息子さんが戻ってこられたら、とにかくそこへ行って寝転ぶだけで伸び伸びしておられるという話をしていました。本当にああいう気持ちいい建物を見せていただいて、それの良さというのを実感させていただいたような気がします。
その辺りの話は後にしまして、もう一つ砺波の分科会というのがありまして、こちらは「散居村の景観と暮らしを守ろう」ということでお話ししていただきました。コーディネーターの斉藤さんにこちらのご報告をお願いします。
(斉藤) 私は京都着倒れ、大阪食い倒れというのはかねて聞いていたのですけれども、この越中は住み倒れと言うのですって。ですから「住む」ということに関しては、とにかく全財産をつぎ込む、そういう気風のあるところだと聞きました。大体、私は郷に入ったら郷に従え主義なものですから、京都に行って着物を買うというわけにもいかないのですけれども、大阪ではおいしいものを食べようとか、越中は住み倒れなら一軒買いたいとは思ったのですがそういうわけにはいかないので。夜、夜なべ談議というときに報恩講料理が出たのですね。それで少し、食い倒れ的に地域の・・・。
(増田) あ、これですね。
(斉藤) これですね。住み倒れのところなのに食い倒れてしまいまして、とにかく今日はこの座っているときのウエストが何とも気になる状況です。
それで、分科会で話されたことは、順を追って話すとむしろごちゃごちゃになるので、何を話したかということをまとめますと、三つになると思います。それは散居村というのが一体何なのかという“Whatですね。それは一体どういうものなのかということと、それから、このテーマは景観と暮らしを守ろうということですから、その保全なのですね。保全ということには一体どういう意味があるのかという“Whyの話と、それとそういうことをやろうとすれば、どうすれば可能なのかという“Howと、この三つがさまざまに議論されました。
そのWhatの問題ですが、外部から来たパネリストがお二人いらっしゃいまして、一人は早野さんという朝日新聞の記者を経て、今、大学の先生で、若い学生さんを三人連れていらっしゃいました。「自分は剣岳には何度も登ったことがあるけれども、散居村をこのように見たのは初めてで、とてもユニークで美しくて、ある意味驚くべき景観がここにはある。にもかかわらず、散居村というものは、自分は寡聞にして知らないのかどうか、もっと知られていいはずなのに、例えばインターネットなどを見てもそんなに情報がない。一体どうして散居村というものがこんなにも素晴らしいものなのに知られていないのか」という問題提起をしました。
それから、そういう意味では散居村とは何なのかということに関しての、全日本的な認識もないし、あるいはここにお住まいのとなみ野の人自身が、一体それがどのようなものなのか、あまりにも日々身近なところにあるものですから気が付いていません。例えば、尾田武雄さんですが、NPOで砺波土蔵の会の理事長をなさってらっしゃって、この保存と維持、みんなにこれを知らせるという、知らせてないではないかという受け止めもあるのですけれども、いろいろな努力をしていらっしゃる方から言うと、それはもちろん意義は感じているのですが、よその人に「こんなにいいものをどうして知らせないの」と言われると、あるいは、先ほど坪井さんがお掃除は大変なのかと言われましたが、私も見ると、欲しいけれどもここを毎日お掃除するのはどうなのかなと思って、「お掃除が大変ではないですか、毎日庭を掃いていて大変ではないですか」とそちらの方が気になるのですね。でも、「どうしてそのようなことを自分たちが住んでいる空間や環境に対してよそ者が言うのか」と思うぐらい、住んでいる人自身とよそ者の間には、あるいは地域の中でもそれをいいと認めて継続していこうということの意識の中には、とてもいろいろな差があるのではないかと思いました。つまり、Whatの部分でもっともっと議論をしないと、ある意味での方向性や、これを維持していくためのきっちりとしたプランニングのようなものができないのではないかという感じがしました。
それと、残していこうというWhyのところですけれども、珍しいから、こういうたたずまいは日本でも数カ所ぐらいでなかなか見られないから、だから残せとその地域の人が押し付けられるのはいいのかというところが皆さんにはおありなのかなと幾分思いました。それで、会場には50人ぐらいの方々がお集まりになっていて、少し手を挙げていただいたのですが、外部から来た人が半分ぐらい、そして砺波に住んでおられる方が半分、だから25人ぐらいいたような感じです。ざっとした感じですけれども。それで「散居村に住んでいらっしゃる方はどれぐらいいらっしゃいますか」と申し上げましたら、そのうちの半分、だから12~13人が実際散居村のああいうお屋敷とカイニョに囲まれた、そういう空間に住んでらっしゃいます。それで「また次の代も次の代も、この屋敷林の中に住んでいくだろうと思われる方は何人ぐらいですか」と手を挙げていただきましたら、手が挙がったのは3~4人ですね。だから3分の1か4分の1ぐらいが手を挙げたというか、それぐらいしか挙がらなかったというような問題です。
だから、珍しいからとか価値があるからということだけでは、なかなか残っていきません。本当にそれが必要で、あれだけの広い住居と、それから手が掛かると言われるような屋敷林に囲まれ、そして水田という農の作業の空間を周りに抱えた、そういうものが本当に自分たちの暮らしに必要であるということが、その根拠がつくり上げられないと、それは残っていかないだろうということです。そういうことをもう一度「創造的に」というふうに言っていましたが、つまり新しい現代の21世紀に入り込んだ散居村という空間を持つところで、それが本当に必要なのかという理由を少しみんなでいろいろ議論しないとそれは残っていかないですねという話でした。
でも、それにもかかわらずというか、そういう中で、やはりいろいろな方はいろいろな運動をしているわけです。尾田さん自身もさまざまなことをやっています。その一つ、つまりHowの話ですね。尾田さんは「お試し民泊」というのを今年になってから始められたそうです。いろいろな方々に、例えば1週間とか三日でも、とにかくそこに住んでいただいて、どのようなことかという感想を持って、そして「また来たいですか」と言うと必ずみんな、その住まい方、その空間、それこそ天井が高いとかそういうものにみんな驚き、感動し、そして「もう一度来たい」と必ずおっしゃるそうです。そういうところの交流の中から、先ほど言ったWhyの話、あるいは自分たちがもう住み慣れてしまったこういう環境は一体どういう意味や価値があるのかという話を地域の人たちが確認していける、そういうノウハウをいろいろ試してらっしゃるというような形でした。
もう一人地元のパネリストがいらっしゃったのですが、その方は「となみ散居村ミュージアム」という館の館長さんでらっしゃいます。実はそこを会場としてお話をしたのですけれども、砂田さんは学校の先生をしていらっしゃって、その館長になったものですから、非常にいろいろな論理的な組み立ての中で、住民の人たち自身が、先ほども言いましたように、自分たちの「住む」ということと空間が一致していなければこれは残っていかないということで、勉強会を年に40回やっているそうです。そしていろいろなところを歩きながら、実際に、地域の人もよく、当たり前だからあらためてどこかよそのおうちをのぞいてみたり、あるいは自分たちの空間にどのようなお寺があり、どのような石仏があり、どのような資源があるかということについて、見たり聞いたりというのをあまりしていません。そういうのを、地域の資源や魅力を掘り起こしながら、みんなで勉強会を積み重ねています。そういう中からいろいろなWhyを探していこうという発見運動のようなことをやっているという話です。
それで、外部から来たもう一人のパネリストがいらっしゃいました。掛川市でNPOスローライフ掛川という活動をやってらっしゃる理事の長谷川八重さんです。長谷川さんたちはもっと前から意識的に、自分たちの町をよその人と一緒になりながら発見し続けていく、そういう運動を実際にやっています。よその人というのは、例えば講師にいろいろな大学の先生やほかの地域おこしをやっている方、お料理が上手な人などに来ていただいて、地域の人のそういうことにかかわって知りたいという人と一緒にいろいろなキャンプや工芸などをやったり、サイクリングなどをしながら学んでいくというやり方ですけれども、そういうことを7~8年続けてきた。それで少し大きなプロジェクトが出たものですから今年1年はその活動をいったんお休みしてみたら、いかにそのことが重要だということが分かったので、砺波でもそういう活動をぜひなさったらどうですかと、そういう話の展開になりました。
私はフォーラムというのは、分科会の2時間ぐらいの中で完結するものではないと思っています。その後、夜なべ談議というものに行ったのですが、このときにそこに集まった30人ぐらいの方が一人一人、自分はどうして今の空間に住んでいて、誰とどのように住みこなしていくかということについて、思わずメッセージを語るような、そういう会合になりました。詳しくは時間の関係で申し上げられませんが、そのときやはり重要なのは、食と農の問題をうまく組み合わせて、環境の問題、建物とカイニョという空間の問題を一緒に議論しないと、なかなかこれを維持していくということにはならないかなと、そのような内容になったと思います。
以上です。
(増田) どうもありがとうございました。
この「住まう」ということですが、今のお話にあった景観的な、こういう非常にある種原点のような風景。実は、私も岩手の知事を12年やっていましたが、岩手県内でいうと胆沢平野というところがありまして、あそこも散居の景観が広がっているのですね。それで確かに考えてみますと、今のお話の中にもありましたが、かと言ってそれがあちこちに知られているかというと決してそうでもないのです。しかしこちらに来て、胆沢平野の風景と非常に類似性があるなという思いもありました。こちらは「カイニョ」と言っているようですが、あちらは、これは東北全体なのですが、垣根のことは「えぐね」と言うのです。「えぐね」とわれわれは呼んでいたのですが。屋敷ははるかにこちらの方が立派なのですが、ただもっと向こうの方は、飛び飛びではありますけれども同じような空間が広がっています。そのような景観的な話と、それから、あとは実際にそこで営まれている生活ですね。それは農業、あるいは、今、話にありました農業と食という問題もありますし、それからその中でさまざまな、逆に言うと条件的には非常に農業の持つ厳しさ、あるいは生活の足をどう守るかという、いわゆる過疎に伴ういろいろな問題もあろうかと思います。そのことについてもあまり多く論点を広げるわけにもいきませんので、できるだけ論点を絞って議論していきたいと思います。
ここでお忙しい中、地元の石井知事さんがおいでになっているので、知事さんから見て富山全体を、いろいろと行政をつかさどる立場ではあるのですが、そういうお立場の知事さんから見て、このとなみ野という砺波平野は一体どういうところなのか、どういう魅力を持っているのか、あるいは「住まう」ということからいうと、いろいろな調査がありますが、富山県の住まいについての評価というのは全国でいつもトップクラス、1位か2位と、常に住みやすさでもトップにいて、そこには何かいろいろな要素で切り分けていくと特色あるものがあると思います。こういったとなみ野、あるいは富山県全体の住環境という意味での魅力を、知事さんの方からご紹介いただければと思います。
お願いします。