高岡フォーラム 神野直彦さん講演


10月14日(日)「スローライフ逸品フォーラムin
高岡」全体会でのキイノートスピーチ、要約です。
○神野直彦さん(東京大学名誉教授・スローライフ学会学長)
○テーマ「ものは時代を語る 人をつなぐ」
私は、地方の都市を回ると古本屋さんに行くことにしています。高岡では、おばあさんのいる古本屋さんに行っています。今日はこの本を買ったので、急遽内容を変えて、これを中心にお話したい。
まず、「逸品」ということ。「一村一品」の「一品」は、私の定義ではせっかちに金を儲けるためにやったファストライフの運動です。今では「一損一品」とさえいわれています。スローライフは「逸村逸品」で、まったく対照的な運動だと理解しています。
「逸品」を辞書で調べると「優れたもの 絶品」と書かれています。優れたものといっても人間がつくった。ここで重要なのは、人間とはどういう動物か。いうまでもなくものをつくる動物です。それでは、人はなぜものをつくるのか。生きていくためにではないかと思います。
「スローライフ瓦版」にも書いたが、最終氷河期に、人間の脳に大変革がおき、人間は生活に必ずしも必要ではない、具象芸術をつくり始めた。ものをつくりますが、脳スキャナーで分析をすると、石器をつくる時に機能している脳の部位と、言葉を話すときに機能している脳の部位は完全に重なる。すなわち、人間にとって、ものをつくることと、言葉を話すことは同じことである。他の人に何かを伝えたいからものをつくるということになります。
社会科学者が、その時代はどういう時代だったのか、地域社会はどうであったか、その社会、時代に人々は何を生きる目的としていたのかを知ろうとすれば、ものと文字を見ます。
人間がつくったもののうち、何が「逸品」なのか。素晴らしいものとはどのようなものか。時代を語り、地域を語り、命を語り、人を語っているもののうち、「逸品」とはどういうものなのか。実に簡単です。書物で言えば古典です。時代を越えて少なくとも100年はもつもの。極端に言えば2000年や3000年はもつものでなければなりません。
この「逸品」を展示してあるところを博物館といいます。世界で初めての博物館は、紀元前3世紀にアレクサンドリア宮殿の一角に造られたムセイオンという博物館。詩の神であり、学芸の神であり、美術の女神であるミューズに捧げる場所。これが博物館です。
「ムセイ」とは英語では「ミューズ」、「ムセイオン」となると「ミューズに捧げる場所」という意味になる。英語で言うと「ミュージアム」です。詩や技術の神に捧げるものが「逸品」であると言ってよいのではないか。ミューズに捧げる音が「ミュージック」。ミューズの神に捧げるために美をつくっている。
ですから、「逸品」をつくる人は詩人でなければいけません。ミューズの神の霊感を受け、ミューズの神の代弁者として詩をつくる人を詩人と呼んでいます。ミューズの神の霊感を受け、ミューズの神の代弁者として「逸品」をつくる者。これを私たちは、職人と呼んでいるわけです。
私の東京で一番好きな場所は国立博物館です。1872年、文部省に博物局ができ、翌年のウィーン万国博覧会の展示の準備をすることになる。ここまでお話すると、高岡に住んでいる方は、誰でもわかりますね。ウィーン万博で最も評価されたものは何か。高岡の職人の金森宗七がつくった作品だった。その作品は100年、200年、300年語り継がれていくことになります。
国立博物館に入ってまず目にするのは、縄文式土器です。大英博物館で最も貴重なものは何か。最も尊重しているのは縄文式土器です。ものはいろんな物語を語る。縄文式土器は何を語ってくれるのか。今回のフォーラムは「まち・技・こころ」がキーワードです。「技」とは、自然に存在するものを新たなものにつくりかえること、と言っていい。
世界で初めて「壺」をつくったのは日本人です。今から7000年前のこと。壺をつくる技のために1万年かかった。その技とは、粘土という自然に存在するものを温めて乾燥させ固くすることができたということです。次に壺がつくられるのは北アフリカと中近東で、日本より2000年~3000年遅れます。
もう一つ重要なことを教えてくれる。壺をつくったということは、もう一つの技術をつくったということです。それは「料理」。世界で初めてスープをつくったのは日本人。壺の中には木の実や貝や魚などが残っている。
さらに重要なことは、「まち」をつくった意味。「まち」というのは、住み続ける場所であり、定住を意味している。世界史を塗り替えた。採集と狩猟の経済のもとでは、人間は移動しなくてはいけない。人間は、1か所に住み続けるために農業を始める。農業を始めて壺をつくり、定住を始めた。農業は弥生時代に始まる。
では、なぜ、日本で採集と狩猟の時代に定住できたのか。日本の自然は人間に優しい自然で、食料が向こうからやってきた。移動しなくても、海岸に行けば磯ものがたくさんある。食料が向こうからやってきたために住み続けることができた。壺は、定住し、まちをつくったという物語を語ってくれます。
もう一つ重要な点は、「こころ」の問題です。縄文式土器には縄文でつけた模様がついている。この文様は何を意味するのか。具象芸術です。自分たちが見ている世界、自分たちが一緒に生活しているものを表して、仕組を知ろうとする。アルタミアの洞窟になぜ絵を書いたのか。自分たちが生きている世界を知らせよう。自分が見ている世界を伝達したい。自分と一緒に生きている人達を伝達したいということですね。縄文式土器は、植物繊維を使って、貝、魚、きのこを一生懸命描こうとしている。心配り。極めて繊細なものを意味する。縄文式土器は全てを語る。
ものをつくる人は詩人ですが、ものを使う人も詩人でなければいけない。ものをどう配置するのか。「逸品」は詩人の魂を持ったつくり手と、詩人の魂でものを使って詩をつくろうという人との合作です。
大英博物館の縄文式土器は中に金箔が貼ってあって、17世紀世紀~18世紀に使われたことが明らかになっている。何に使ったのか。日本の生活様式の儀式である茶道の水差しとして使っているんですね。このことは、職人たちが生活様式を通して「こころ」を伝えようとしたのだと思われます。

髙橋市長には、一か所でもいいから、まちを「ムセイオン」にしてほしいとお願いしています。まちを歩くと1000年も2000年も持つような「逸品」がある、まちそのものが博物館であるまちのを「逸村」と言います。ヨーロッパにまちそのものを公園にしようというエムシャーパークがありますが、まちが博物館であるというのはどこにもない。高岡は、まちそのものが博物館で「逸品」が見られる。高岡に行くと、私たちの時代はどういう時代か、人間はどう生きるべきか、そのことを考えることができる。そういうまちが「逸村」ではないか。
「一村一品」はファストライフですが、私たちが追求している「すぐれた村のすぐれた作品」は、まるで博物館のような地域社会に、博物館に展示されているように時を越えて語ってくれるものがあるまち。そこを訪れる人は詩人の魂を持ってその音を聞く能力がある。ということではないかと思います。”