神野直彦さんスピーチ。2012年2月12日「スローライフ・フォーラムin日光」全体会で。

神野でございます。よろしくお願いします。私、今日、スローライフという観点からですね、「交流」についてお話をさせていただければいいと思っています。スローライフという考え方はですね、1980年代の半ばにアメリカのファストフードですね、ハンバーガーとかコーラとかいうようなファストな食の文化が世界を席巻しつつある時に、イタリアでもってスローフード、つまり伝統的なイタリアの食の文化を守っていこうという運動が始まりです。これを、生活スタイル、ライフスタイル全体に広げていこうということで、日本ではスローライフ運動が起きて参りました。そして決定的な意味を持ったのは、私どもの学会長である増田学会長が知事時代に「がんばらない宣言」、これはスローライフ宣言ですね。楽しい田舎暮らしをする県、ということを掲げて、スローライフ宣言いたします。これは素晴らしいことですね。
日本人はがんばれというのですが、英語で訳すと「Good Luck!」ですね。神の思し召しのままにということを半分は含んでいるので、自分の人生の幸、不幸、あるいは物事が成功するか否か、全て人間の責任ではなくて、運命もあるんだ、という考え方に立たないと、これから子どもたち非常に大変じゃないかと思いますね。全部、自分が責任を負わなくてはいけない。少なくても宗教心のある国々は、半分は神々の思し召しであって、あとの半分が人間の努力なんだ。イスラムに至っては、インシャラーですから、アラーの思し召すままにってことになるわけですね。
そうしたファストフードへのアンチテーゼ。こういういい方は失礼ですが、粗野なアメリカのライフスタイルに対するアンチテーゼとして起きた運動が、スローライフ運動です。グローバリゼーションに対抗するもの、こういうふうにいっていいのではないかと思います。ただ、その後日本は完全にファストなライフスタイルに席巻されます。アメリカのライフスタイルですね。つまり大規模な郊外店舗が展開し、コンビニエンスストアがまたたくうちに、全国津々浦々に広がっていく。冷蔵庫と車が勝負なんですね。急いで時間をかけずに安く買う買い物、というようなライフスタイルが日本を席巻してしまうんですね。
これに対してスローライフ運動はどういうことをいっているのか。つまり、スローライフでは他の文化と「交流」することを拒否し、それぞれの地域の文化を守れ、とこういうふうにいっているのか、というとですね、そうじゃないんですね。そもそもグローバリゼーションがおかしくてですね、「交流」ということは、国際という言葉に示されるように、インターナショナル、つまりナショナルなものが存在していてそれぞれのナショナルなものを磨きながら、お互いにインターさせる。これがインターナショナルなのに、グローバリゼーション、アメリカの粗野な文化を押し付ける。そういうふうな画一的なライフスタイルを拒否していく、それがインターという考え方であり、「交流」という考え方だというふうに、スローライフでは考えている、というふうに私は思っております。
さてこれを日本人の素敵な知恵で表現すると、どういう日本語になるか。それは「ちゃんぽん」ですね。「ちゃんぽん」こそ「交流」の本質だ。長崎ちゃんぽん、あれはですね。オランダの文化と中国の文化と日本の文化を「ちゃんぽん」させるんですけれども、それぞれの文化を否定しない。つまり、それぞれの文化の良いところをそのまま、存在させて混ぜる、「交流」させるということが「ちゃんぽん」ですね。
この「ちゃんぽん」は、実は「交流」の歴史を教えてくれています。それは、なぜかというとですね、日本語と韓国語では全て対になっておりまして、「私」という言葉に対応する言葉があり、「私は」の「は」に対応する言葉が全部あります。例えば、「かける」という言葉、帽子をかける、腰をかける、電話をかける。それに対応する言葉は全く韓国語でも同じことを意味します。ただ「ちゃんぽん」だけは、まったく同じ言葉が韓国でも存在します。韓国に行ってですね「ちゃんぽん」を注文すると、どういうものが出てくるかというと、中国風のラーメンの上に真っ赤なとんがらしの幕が覆っている「ちゃんぽん」が出てくるわけです。これは完全に見ただけでわかります。つまり、韓国風なものと、中国風なものが、完全に存在感を持って分離したまま、「ちゃんぽん」されてる、ということですね。これは「ちゃんぽん」という言葉が、私たちの文化の「交流」、お互いに存在しながら、文化の「交流」をしたその証拠になっているということですね。
これが沖縄に行きますと、ちょっとなまります。「ちゃんぷるー」ですね。ゴーヤチャンプルー。お釈迦様はですね、五味がある。味には5つの味がありますよ、と。甘味、辛味、酸味、苦味、塩味。この苦味の文化は南の文化です。ゴーヤーというのはあまり、それ以北では食べないわけですね。以北ではどういう文化なのかというと、北の方に住んでいる人々は、塩味の文化です。ただ、五味だけではなくて、日本人の素晴らしいところは、もうひとつ味の存在が自覚できる。それが「渋み」です。他の民族は渋みは理解できないので、渋いということに対応する、例えば英語を見つけようとしてもありません。ないんですね。あの人は渋い人だということをいいますが、そういう価値感がまずない。苦味は苦みばしったというのが全世界通じます。
五味は、これも私どもの「スローライフ瓦版」、私どもの学会が出しておるメルマガに書いたんですが、お釈迦様はですね、5つの味が、お乳を精製していく過程で出てきて、全て5つの味が出てくるんだけど、最高の味は、ヨーグルトの味だといわれた。ヨーグルトのことを日本語では醍醐といいますので、最高の味は醍醐の味であり、「醍醐味」なわけですね。一番最高なんだ、最高だというのが醍醐味。
こういうふうにいわれるようになってきていますので、「交流」ということはそれぞれが存在するものを認めあいながら、交わるということが「交流」ということです。昨日は「まつり」がテーマでした。私の家は代々神々に仕えておりましたので、「まつり」というのはどういう行為か。それは神々と人間との「交流」を深めるために行う行事。これが「まつり」。それはどっちかがどっちかになっていくわけではなくて、それぞれ存在しあいながら、それぞれが結びついていくっていうことを強める。それが「交流」だというふうに理解できます。
さて、少し踏み込んで、観光とは何か。これも「スローライフ瓦版」に書いておきましたけど、お釈迦様の教えではですね、観光の「観」というのは、悟りを開くという意味ですので、「光」というのは明るいもの、それから明るいものから連想される希望を見るわけですね。希望ということですね。したがって観光っていうのは希望を見て新たな悟りを開くこと、これが観光です。
旅行というのは人間の移動形態の一つですが、人間の移動形態で多いものの一つが、戦争のための移動ですね。アメリカ人は非常に大好きでですね。第2次世界大戦後、日本は、一カ国とも戦争をしていませんが、アメリカの対戦国は二十カ国を超えました。非常に好戦的な人たちですが、戦争というのは移動するわけですけど、旅行はそうじゃありません。生活の場を確保しておいて、その場から、観光旅行であれば、希望を求めてウロウロして、また戻ってくることを前提にした移動。これが旅行ですね。これを受け入れる、観光地の方からいうと、希望を見させる、ということが観光ですね。おもちゃの職人が、子どもたちが喜ぶ顔を浮かべながらおもちゃを作るように、他の地域の人々が来たときにどういうふうな希望を持って帰ってくれるのか、ということを考えてつくる行為。これが観光という行為のはずですね。
ところが、残念ながら、観光にもグローバリゼーションが押し寄せてきます。つまり、グローバリゼーションというのは、もともと市場で処理してはいけないことも、すべて市場で処理しようということですから、人間の愛情ですら市場で買える。愛情も買えるんだという錯覚に陥るわけですね。観光でいえばホスピタリティー。これを切り売りするということを迫るような雰囲気を、グローバリゼーションは持ち込んで来ます。このことは非常に悲しい現象を巻き起こし、これは有名な文化人類学者で経済学者でもあったポランニーが指摘していることですけれども、観光化への不安、つまり、自分たちの地域の大事なもの、それから自分たちのライフスタイル、これを見世物にしろといわれるわけですね。大切なものを見世物にするための不安、これを「観光化への不安」といい始めました。さらに「観光の終わり」という言葉も囁かれるようになってきたんです。
今、グリーンツーリズムとかアグリビジネスということがいわれるようになりましたが、これはですね、そういう「観光化への不安」を、本来、克服する運動として出てきているものが、そこを間違えると、観光もとんでもない道に入っていく。スローライフの考え方ではなくてですね、とんでもない道に入っていくのではないか、というふうに思っています。そして現在、そういう「観光化への不安」を克服するために、重要な概念として打ち出されているのが、イワン・イリイチという有名な哲学者が提起した概念で、コンヴィヴィアリティ(conviviality)という。これは宴会をするとか、うかれ騒ぐというのがそもそもの意味なんですけれども、皆で楽しんで、自立できて、創造的な、新しいものを創り出すような仲間づくりをしていこう、というのがコンヴィヴィアリティの概念です。
もう少しいいますと、共同体とか地域社会というのは、その地域の自然に合わせて生活を営んでいきますから、同じ価値観を共有し、同じ心情、気持ちを共有し、そのことによって私たちは自分たちは仲間なんだという感情を持つわけですね。先ほどいいましたけど、神々というのは自然だということだとすればですね、「まつり」というのは、神々と人間とが「交流」する行事を行うことによって、その地域の人々が、我と汝ということを克服して、「我々」という意識、これをつくりだそうとする、これが「まつり」です。気持ち、心情とか感情とかを共有して、価値の共有が行われていくわけですが、コンヴィヴィアリティという概念を当てはめ、先程もいいましたけども、インターナショナルと同じように、それぞれの地域社会のものを大切にしながらお互いに、結び交わっていくということが「交流」だというふうに考えれば、これはイリイチの言葉をそのまま読んでいきますと、「価値を共有するものではなくても」、他の地域社会の人であってもですね、「気軽にその輪に入ることができる」、気軽に入っていくことができる。「そして、異質な価値観を持った人たちが」、違った価値感を持った人たちが、「違った価値観を持ったままで、お互いの心情」、気持ちや考え方をちゃんぷるさせることですね、「そして、それぞれのものをお互いに尊重しあう」。
ひとつの文化が支配的に席巻してしまうのではなく、尊重しあっていく。これがコンヴィヴィアリティで、私たちが今、観光を考えるということであるとすると、スローライフの考え方に立てば、グローバリゼーションが押し付けてくるような観光ではなく、それがもたらしてきた「観光化への不安」を克服するような、新しい観光ということがつくられるはずで、そのことは、伝統的な、私たちがその地域社会で培ってきた伝統的なライフスタイルを切り売りするように、売っていく悲しみではなく、今のように「交流」させるということがポイントになる、ということを最初にお話をして、少し私の至らなさで、時間制約の中ではしょった、論理が飛んでる部分があるかもしれませんことを、お許し頂いて、最初の問題提起にさせて頂きます。どうもご清聴ありがとうございました。