11月の「さろん」は筑紫哲也さんと早野透さんを偲びました。

11月15日、第123回の「さんか・さろん」は『筑紫哲也を語ろう』でした。

スローライフ学会の初代会長だったジャーナリスト・筑紫哲也さんが亡くなったのは、2008年11月7日。命日に近いこの日、スローライフ学会会員のなかでも、“強烈な筑紫ファン”だという高橋征吾さん(スローライフ学会会員)にスピーチいただき、筑紫さんの思い出を語り、偲ぶ予定でした。それが、高橋さんが急遽ご都合悪くなり、代役で事務局長の野口智子(写真)がスピーカーとなり、筑紫さんの7年間に亘るスローライフ活動を振り返りました。高橋さんには、いずれ機会を改めてお願いします。

また、11月5日、急逝されたスローライフ・ジャパン理事のジャーナリスト・早野 透さん(写真)を重ねて悼みました。

 

~野口事務局長の話~

筑紫哲也さんは1935年大分県生まれ。早稲田大学を卒業後、朝日新聞に入社。新聞記者、『朝日ジャーナル』編集長などをされた後、TBSの番組『NEWS 23』のメインキャスターを19年間務められました。その間、“新人類”など新しい言葉を数多く発信、日本に初めて“スローライフ”を紹介した人でもあります。2008年、癌との闘病の末ご逝去されました。73歳でした。

  

筑紫さんとスローライフの関係は2001年7月、山口県での『きらら博』のアドバイザー会議に参加した筑紫さん、現NPOの川島正英理事長、野口、そして瀧栄治郎理事が、『News Week』誌の「欧州に広がるスローライフ」という記事に共感し、日本も“もっとゆっくり”を取り戻そう!と意気投合した時からです。

活動の最初はどこかの自治体で…、と候補地を探していたところ、静岡県掛川市の素地が揃っていたこともあり、2002年11月『スローライフ月間』と銘打ってスローライフ運動が始まりました。視察で初めて掛川市を訪れた筑紫さんは、バスの先頭に座り、市民のガイドにも熱心に耳を傾け、商店街では吹き矢を体験。宴席の調理まで手伝うとても気さくさ。そんな写真が多く残っています。(写真左下は掛川での宴会、エピソードを掛川の長谷川八重さんが披露)

 

2003年、岐阜県多治見市で、“みちくさ”をテーマに『月間』を開催。なかでも“みちくさ”作文コンクールには、1000作品近い作文が寄せられ、10作品に絞った最終審査に筑紫さんが参加。罪を犯して刑務所から出所された方からの、人生に道草をしてしまったという反省の作品に対し、入賞に賛否が分かれましたが、筑紫さんはその考え方を評価されていました。

埼玉県草加市では宿場町をテーマに『月間』を開催。この頃、スローライフを解説するフリップとして、早い⇔遅い、良い⇔悪いの座標軸を用い、「ゆっくりで良い事が大事、“緩急自在”が大切だ」と語られていました。また、スローライフ運動の広告塔として日本各地で講演活動をされました。

2003年11月20日、当初からの目標だったスローライフ運動のNPO、『NPO法人スローライフ・ジャパン』の設立を実現。2006年6月6日にはスローライフ学会も設立。初代会長に就任されました。

兵庫県宝塚市では「花」をテーマに。「世界に一つだけの花」の歌を「“反戦歌”だ。高度成長に対する“反省歌”でもある」と意味づけられました。その後も山口県柳井市、岩手県遠野市、新潟市「朱鷺メッセ」、…などでスローライフ運動を精力的にすすめられました。しかし、2007年癌であることを公にし、闘病が始まります。予定していた新宿区歌舞伎町や鳥取市でのフォーラムには欠席となりました。その際、直筆のメッセージを出されています。(左下)

 

~「さろん」参加者の話~

学生時代から筑紫さんと友達だった方:「学生時代からボランティアをしていた。一緒に伊勢湾台風の被害の片付けに駆け付けた。旅が好きで一緒にあちこちに行った」などなど、友人を大切にする人柄が偲ばれるエピソードの数々も紹介されました。

筑紫さんの授業を受けた方:「“自由で闊達な論議”を何よりも好んだ筑紫さんから、発言の機会を頂きながら、何も言葉がでなかった自分が不甲斐なく、今でもそれがバネになっている」

新潟市朱鷺メッセでのスローライフ展に参加の方:「手間暇のかかる仕事を厭わずやるお爺さんが「暇だからね~」と言ったことに対し、筑紫さんが心打たれたと聞き、スローライフの神髄を感じた。スローフードへの言及で、米つくりは年輪みたいなものだと改めて思う」

「当時は憧れの遠い存在だったが、最近はYouTubeで会っている」という筑紫ファンの方。「まだ新しい分野の”生命科学”を一生懸命に知ろうとされていた、好奇心の旺盛さを感じた」エピソードを紹介の方。「一連の話から、”お浄土”と”オンリーワン”と”スローライフ”は通じると感じられる」といった感想も。

あらためて、筑紫さんの吸収力・華やかさ・親しみやすさ・信頼…、いろんな側面が思い出された時間となりました。「こんなに深く関わっていたとは驚いた。あらためて彼の著書を紐解きたい」との声は、高橋征吾さんの回に引き継ぎたいと思います。

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早野透さんは、筑紫さんより10歳年下の1945年生まれ。東京大学卒業後、同じく朝日新聞入社。故・田中角栄氏の番記者、人気の政治コラム『ポリティカにっぽん』の編集委員でした。退社後は桜美林大学の先生になられ、筑紫哲也さんの研究もされていました。77歳でした。この写真は2008年、筑紫さんを偲ぶ会でユーモアを交えてスピーチをされる早野さんです。

早野さんはスローライフ・フォーラム開催地の各地に出向き、現地の方との語らいを何よりも楽しみにされていました。盛んにメモを取られる姿、お茶目な笑い方が思い出されました。参加者から職場での優しく厳しい仕事ぶりも紹介されました。

参加者21名が、懐の深いお二人を偲び、時に笑いながらの「さろん」となりました。