スローライフ・フォーラムinとなみ野全体会シンポジウム3

2010年11月14日のシンポジウムの記録3です。増田コーディネーターの質問に答えてのパネリストの意見から。終了まで。・・・・・・・・・(坪井) 私は砺波というと、チューリップと綿貫民輔しか知らなかったものですから、はっきり申し上げてすべてが驚きでした。井波の、先ほど知事の説明にも写真が出ていました八日町やあの通りを歩いてみると、家々の表札が彫刻になっているわけです。生まれ年の干支の彫刻がずらっと並んでいるその通りを歩いていった先に、瑞泉寺という素晴らしい彫刻の塊のようなお寺があります。ここに来る人が、昨日の夜なべ談議だと年間10万人ぐらいかなとおっしゃっていて、町のNPOの方が100万人にしたいなどとおっしゃっていましたが、鬼太郎の道路に200万人行く時代に、もう少し宣伝をすれば、ここは100万人はすぐ来るだろうと私なんかは思いました。 それで笑ってしまったのは、笑ってしまったというのは悪い意味ではなくてほほ笑ましかったのは、バス停の彫刻とか、電話ボックスも彫刻になっているとか、ああいうのは外から来ると素朴な驚きです。こういう彫刻の技術を伝承している人たちがまだ200人、今もいらっしゃるというのを聞くと、これはこの町の売り、売り方と言うと失礼ですけれども、観光のPR一つでものすごく人が集まるのだろうなと思ったのが一点です。 もう一点は、利賀村でもそうでしたし、昨夜の井波でもそうだったのですが、私はものがおいしいと思います。私は特にお酒が気に入りましたが。お酒は全国おいしいものがそれなりにあるのでしょうけれども、昨日私が「へええ」と思ったのは、杉森さんがおつくりになった遺徳煮という、親鸞聖人の遺徳をしのぶといいますか、野菜の中にあずきと一緒に煮ているというような、素朴な味とか。ああいうのは、新潟に行けばのっぺ汁があるではないかと、いろいろあるのでしょうけれども、ああいう食べ物のおいしさ、特に昨日は里芋もびっくりするぐらいおいしかったので、ああいうのを一つ一つ積み重ねていけば、皆さんにとってみれば当たり前の食べ物なのでしょうけれども、外から来た人はもう「へえー」と驚きます。例えば利賀村がおそばのお祭りをやっていますと言うと、多分私は利賀村ではそばをいただかなかったのですけれども、おいしいものがあるのでしょうから、外から来て、何も飾らないものでもすごくおいしいというのが、私は非常に新鮮な驚きでした。それが実はこの地域の素晴らしい点なのでしょう。300人が入れる家の大きさにも圧倒されましたけれども、食べ物のおいしさにも感動し、そして彫刻の技術の高さにも感動しました。 ただ一つだけ加えると、彫刻に関して言うと、天神様が、富山の風習ではお嫁さんの親御さんが長男に贈るというので並んでいましたけれども、われわれ外から来た人間からすると、別に天神様には何の興味もないわけで、あれがたくさん並んでいるというのは外から来た人にアピールするにはどうなのかなというのを一点思いました。 以上です。(増田) ありがとうございました。 あれは私も瑞泉寺に行くときに、参道というのか商店街を行きましたけれども、彫刻刀が200種類ぐらいあるのですが、それが並んでいるのを見るだけでも、よそから来ると感動ものですね。それを実際にその場で使って、動かしているところもそうなのですが、やはりあれだけの種類の彫刻刀が並んであって、それでその作品がわきにあるということ自体が、やはりそれがもう既に本物なのだなという気がしますね。普通はいろいろな彫り物があちこちで観光地に置いてあるのですが、実際にそれが本当にそこでつくられているのかとか、どういう技術を持っている方がいるかというのは、実際には別のところでつくっているのでしょう。だからそういう意味で、ここにそれだけの集団がおられます。昨日も岩倉さんが来ていろいろお話を聞きました。やはりそういうことがきちんと見えるようなところにあるということ自体が、何かものすごく感動でした。 それでは斉藤さん、お願いします。(斉藤) 私はまず「あじゃあじゃ」ですね。これはスローライフ運動の、一つのスローガンにしてもいいのではないかと思う「あじゃあじゃ精神」というのでしょうか。日本人はこのあいまいを愛し、あいまいに、何となくグレーのところも良しとして生きてきた民族であるのに、何か最近ははっきりせよというようにいろいろなところから迫られていて、プレッシャーになって脅迫観念に襲われているような感じの中にあります。 昨日の夜なべ談議の帰りに、大体時間が来たからどうやって締めようかという話になったのですね。関東だと関東一本締めというのをやります。私はずっと関東でそうしてきましたから。とにかく「えい、や」と一回だけ拍手して、もうそれでお開きですとやるのですが、富山の人はそういうのはなしでいいのだそうです。そういうのはなしで、では、あじゃあじゃで、何かそれぞれ好き好きにゆるゆると解散しましょうということでした。こういう日本の中で失われてきたようなものは意外と残すべきではないか、もっとこの良さを情報発信すべきではないかとかえって思いました。 それと、もう一つは血のつながりのようなものを感じたのです。神野先生が「ミダスの呪い」ということを言って、娘に触ったら娘が金塊になってしまう、そういう恐怖の時代に私たちは生きていると言いましたけれども。昨日たまたまある事件があって、私ども事務局というか、よそから来たメンバーが飲んでいるところに、私の分科会とは違う井波の分科会の杉森さん、おうちを訪ねた方がいらっしゃいました。自分の杉森家は、四代かかって今のおうちの散居のたたずまいになったそうです。最初の一代目は骨格をつくりました。二代目は彫刻、ああいうものを施してやりました。そして自分が・・・、だからもう一代あるのですね。私も何か少し頭が、酔っ払ってはいなかったのですが混乱、あじゃあじゃだったものですから。(杉森) 天井。(斉藤) 天井、ごめんなさい、杉森さんがいらした。天井をつくる世代があって、それでご自分は。(杉森) 三代目が欄間を入れて。(斉藤) 欄間を入れて、それでご自分はキッチンを、台所をとてもきちんとなさったと。それでこの後、自分の次の世代がどうするかは分からないけれども、ここで住みこなしていくとあなたが覚悟すれば、ある・・・。(杉森) 屋根を直してください。(斉藤) 屋根のところ、後でちゃんと説明していただきましょうね、をやりなさいと、こういうことを言えるその世代というか、家族という、あなたに私たちの先祖というか代々はこういうことをしてきた。あなたにはもちろんあなたの決定する範囲や自由さはあるけれども、こういうことなのですよとそういうことを言えるのは、ちょっとないのではないかと。 もう一つ感じるのは、そういう散居村の良さを、私は情報発信していないと思うのですが、いろいろな方にそういう富山人のある種の個性や魅力をもっともっといろいろ知らせてほしいなと思いました。(増田) ありがとうございました。 何か、今、杉森さんが一生懸命フォローしていましたので、いかに斉藤さんが気持ち良くお酒を飲んでいたかということが、何か昨日の雰囲気がほうふつとされるような感じでした。 それでは丸岡さん、お願いします。(丸岡) 私は先ほども言いましたけれども、秋田県北部に住んでおります。秋田県の北部は何で生きてきたかといえば、一つは米です。米をたくさんつくっています。ここしばらくは「あきたこまち」という米をみんなつくって何とかやっているということと、もう一つは能代市を河口とする米代川という少し大きい川がありまして、その流域はほとんど昔から秋田杉という木材を産してきた地域でした。 それからもう少し上流に行くと、鉱山地帯があります。非鉄金属の金、銀、銅など、今でも金の延べ棒をつくるような、そういう鉱山地域です。木の仕事はほとんどもうすたれてきて、昔、製材工場などがたくさんありましたけれども、ほとんどもうなくなってしまいました。それから、金属はあまり採れなくなったのと、少し前までは、金属の値段は国際の相場で決まりますので、値段の安い時期がずっと続いて、それも成り立たなくなってほとんどやめています。米はご承知のように、今年はまた非常に作も良くないのに値段も下がって、5~6年前から見ると米の値段は半分ぐらいになりました。非常に苦しいことばかり多いです。そういうところから今回お邪魔をさせていただいたわけですが。 一つ、やはり目を見張るのは素晴らしい住宅です。私は行政の仕事を12~13年していまして、それから割合建築が好きなので、どこへ行っても住宅や建物をよく見ますけれども、これほど住宅が整っているところはきっと日本中にないのではないかというぐらいに思いました。しかも、その建ち方が素晴らしいし、秋田県は秋田杉を売っていますが、これほど立派なうちはそんなに多くないです。ですので、きっとああいう住宅をつくれる経済力というものがここにはあるということが、先ほどの知事さんのお話でも分かりました。 それで利賀村に行ったのですが、利賀村は先ほども言ったように困っていることもあるというお話でした。今回の話を通じて私なりに発見したことは、このままではいけないということで非常に頑張っている地元の方々がいるということですし、そういう地元の方々の頑張りに応えてといいましょうか、刺激されて、ではそこへ移り住んで暮らしてみようかという人が出てくるほどのことになっています。それから、そういう姿を都会から見つめて、何とか応援ができないかと見てくれている人たちも少なからず存在しています。そういうことと、そういう姿を見て、国の段階でもどうしたら応援していけるかということを考えているということが、今回の分科会で分かりました。 恐らく利賀村のようにいろいろな事情が厳しいところは全国にもまだまだたくさんあるのですが、これほどの条件がそろっているところはそう多くない、幾つもないのではないかと思います。けれども、結局、しかし利賀村の方々が自分でそういう状態をつくり出してきたということがあるかと思いますので、むしろそういうことは私たちがもっと見習うべき点というものがたくさんあるのだなと思いました。ですので、いろいろ発見をすることがたくさんありました。これはもうここで私がとやかく富山県についてものを言うことよりも、ぜひまたうちへ帰ったら、いろいろな人に富山県はこうだったよという話をして、もう2~3回勉強に来たいものだなと思っています。 それから先ほどの知事さんのお話では、もう大方の課題には道筋がついているように見えましたので、それも含めて大変今日はいい勉強をさせていただいたということにお礼を申し上げたいと思います。 以上です。(増田) どうもありがとうございました。 今までいろいろなここでの工夫や知恵、それから本当に外から来て、見て、驚きの発見というようなことをいろいろお話しいただいたのですが。それはそれとして、そうは言っても、先ほどの知事さんのお話にもありましたけれども、例えば散居村の景観は非常に誇るべきものではありますが、実際にそこに住んでいて、それを守るということについては、やはり大変な努力、ある種外からそんな素晴らしい素晴らしいと言えば、逆にそれが、守ることがここにいる人たちにとって責任のようなことになってきます。そのようなこともあって、本当に地域の皆さん方が、ではそのためにどういうことをしておられるのか、広く言うと、過疎に伴ういろいろな問題があって、それをやはり乗り越えていかなければなりません。やはりこれは、そういう素晴らしい景観があるから、一方でそのことによって非常に苦しい、あるいは厳しいものを強いられるという側面もあると思います。その辺りについては、初めに石井知事さんから県のいろいろな取り組みなりをまたご紹介いただきたいと思うのです。 ここまでのところで神野先生に、今までいろいろなお話がありましたので、ご感想なり何なりをお願いできればと思います。(神野) 先ほど知事からは、私が緑と絆というふうに言っておきながら、絆についてはあまり強調していないのではないかと、つまり絆で学ぶべきところが、この砺波や南砺から何かあるかと言えば、これはもう当然のことですけれども、私たちは、先ほどの言葉で言えば「わが家にいる」という感覚が一番重要なのですね。それで、ここ砺波や南砺から学ぶものがあるとすれば、私は祭りです。農耕というのは、そもそもコミュニティーの共同作業なしには成り立ちません。従ってコミュニティーは強くなければいけないのです。それで祭りというのはどういう意味があるかというと、それはコミュニティーの共同作業の象徴なのです。私は繰り返すようですが神に仕えてまいりましたので、うちは神々に仕えてきましたので、鎮守の森の祭りというのはあらゆる職業の相違を越えて、そのコミュニティーが、生まれも育ちもさまざまなものが違うけれども、団結して準備をしていくという過程が一番重要なのです。それによって、そのこと自身がコミュニティー活動になり、かつ防災や防犯活動にもつながっていくというのが祭りの意義だと思います。 かつ、こちらのお祭りは農耕と不可分なはずで、豊かとか何とかといろいろたくさんの大きなお祭りがありますが、すべて農耕、畑もありますが田祭りを基本としているというように理解した方がいいと思います。そこはやはり私たち、私たちというのは自分が都会にいるということではなく、日本の他の地域が失ったものとして学んでいくということが大切なのではないかと思います。 さらに今回のスローライフでは、スローライフというのは時間の問題を考えているわけですが、私たちの生活は時間と空間があります。空間の問題でゆとりということで住まいを考えているわけですけれども、そのときに重要なのは、その住まいの中にある人間の営み、そのことが重要なのだと先ほど知事は強調されたわけですね。それは私たちの、一軒一軒の住まいの中でも同じことです。先ほど申しましたけれども、一軒一軒の家の中では、食うところと寝るところなのです。この食うところと寝るところも共同作業であるはず、つまり共に生きる人間関係があるはずなのに、それを失い始めたというのが日本の社会ではないでしょうか。「ファミリー」というのは食事を同じくする者という意味で、従ってローマの奴隷にも食事を同じくする権利は認められていました。しかし今の日本人は、家庭の中で食事を同じくしていないわけです。つまり家の中で、食うところなのに、孤食とか何とかとそれはいろいろありますが、いずれにしても共に食事をするという作業が行われていません。 もう一つは、寝るところでもなくなっています。日本の住居では寝るところ、床を非常に重視してきました。その象徴は床の間です。床の間を重視してきたのです。ところが、今の日本の国民は、寝るのもきちんと寝ていないのです。もう1億不眠化現象ではないかと思います。つまり思慮深くもなく、短気で、破壊を好み、不眠症現象が社会的に生じて、結局、人間の結び付きを崩し始めたというような印象を受けておりますので、知事から強調されたように、器の中に入っている、あるいは自然環境の中に入っている人間の営み、そこもこの地域から多く私たちは学んでいかなくてはいけないのではないかと思います。(増田) ありがとうございました。 昨日、また杉森さんのお宅ですが、おっしゃっていましたよね。子供たちはちゃんと部屋があるのですがみんなこっちへ来て、そこで、そういう空間でこうやっている。そしてそこがまた天井が高くて、それは絶対賢く子供が育つそのもとではないかと思います。そうなのですよね、都会の小さなマンションで、逆にそれぞれ別の部屋で、小さいから本当は顔をすぐ合わせられるのだけれども顔を合わせないとか、何か今、身につまされるところがたくさんありました。 それで、いずれにしても先ほど言いましたように、いわゆる一言で言ってしまえば過疎のような問題に直面をして、それを乗り越えながらやはり地域をきちんと続けていかなければならないということです。 石井知事さんに、やはりいわゆる過疎問題のようなことについて、県としてどういうことをいろいろおやりになってきたのか、あるいは今後おやりになろうとしているのか、その辺りについてまたお話をお願いします。(石井) どうもありがとうございます。 過疎対策の前に一言だけ言いますと、先ほど斉藤さんのお話にも、一代目が家の骨格をつくって、二代目が天井をつくって、三代目が欄間と、いろいろありました。私も知事に就任させていただいて、割に新しいときに、砺波や南砺の散居村をいろいろ見せてもらいました。あるおうちに行ったら、やはり12~13室、部屋がありました。それで「大変でしょう」と、もちろん管理がということもお話ししたのですが、皆さん大変なのだけれども、これが生きがいでもあるのだと言って、ある部屋を案内して「この部屋はひいおじいちゃんが植えた屋敷林がだいぶ成長したので、それを切ってこの部屋はつくったのです」とおっしゃいました。それは30年前につくりました。その後、ここの天井は10年前にこういうふうにしてつくったと言って、屋敷林をただ保存するだけではなくてちゃんと循環して、それで立派な家屋が次々できてきているということをすごく感じました。だから、もちろん現代になると不便な面もいろいろあるけれども、やはり皆さんが誇り、あるいはこの先祖からのいろいろな文化、なりわい、生活を大事にして、伝えていこうというのがあるのかなと。もちろん自助・共助ということで、市町村長さんとも相談して支援もしているのですけれども、根本がそれがないと続きません。 そうは言っても、やはりこの散居村も維持していくためにも、またそこで人が、やはりいろいろな厳しい世の中ですけれども、しっかり地域社会を成り立たせて交流していくためにはやはり一定の経済力が必要で、そうでないとどんどん過疎が進むということがあります。そこで例えば、先ほど来お話が出ましたが、率直に言って日本の農業でいえば農業所得は、増田さんは釈迦に説法ですが、この20年、30年の間にどんどん小さくなっているわけです。実際、富山県でも多分、農業所得だけではとても食べていけません。年間せいぜい100万円か50万円なんていうところがあるわけです。 では何で食べていけるか、それなりにいけるかというと、富山県が結局何をやったかというと、やはり昔から富山の薬という土地柄でもありましたから、売薬などで得られた資本、それと立山連峰などから流れいずる豊かな水、ここから電力を発電して、そしてやはり、工業立県も結構図ったのです。ですから、富山県の農家がなぜ世帯当たりにしたら全国トップクラスの所得かというと、実は農家が多いのですが兼業が圧倒的で、昼は工場、事業所に勤めているという人が結構多いのです。そういうことで、県民全体が何とか経済が成り立つように努力をしてきたという面があります。 と同時に、これからやはり人が減る時代ですから、人の交流をもっと進める、幅広い意味での観光を進めるということで活性化を図っていきたいと思っています。それにはやはり、いろいろ先ほど皆さんよそからいらしているから褒めていただきましたが、やはりせっかくの富山県のいろいろな観光資源や、人が来て感動するようないいものをもっともっと磨いて、ブラッシュアップしないといけません。そこで、例えば今日、砺波の上田市長がいらっしゃいますが、県・市協力して屋敷林を守るための住民との協定とか何かを進めていますが、それだけではなくてさらに一歩進めて、例えば国の景観法に基づく景観計画というのをつくって、もっとさらに、例えば砺波の町並み、これをブラッシュアップしていこう。例えば南砺市の田中市長もおられますが、利賀村もせっかく鈴木忠志さんという世界的に有名な人がいて拠点にしていますから、これと連携してもっと国際的な、今でもやっているのですがもっとさらに大きなことをやろうとか。あるいは、五箇山、城端、それから話に出た井波などいろいろないいところがありますから、これをそれぞれ幅広い意味での観光と、それから住んでいる人がもっとさらに誇りを持って希望を持てるようなまちづくり、そして、人が来てそこで気持ち良くお金を落としてもらえるようなまちづくり。先ほど食の魅力のことも言っていただきましたが、結構食べ物がおいしいところなのですが、これもさらに工夫をして食の魅力も追っていきたいと思っております。 最後に先ほど少し人の話もしましたが、もう一点だけ付け加えさせていただくと、先ほど棟方志功の話もしましたけれども、これは皆さんは、富山県があまりPRをしていないから知らない方が多いかもしれませんが、民芸運動で有名な柳宗悦という人がいます。あの人の有名な著書に『美の法門』がありますが、これは実は城端の善徳寺というところで、戦後、昭和23~24年ごろに書き上げたのです。彼は日本の民芸運動のリーダーで、ちょうど今、皆さん、県民の方もおられるから、県の水墨美術館で陶芸家の河井寛次郎の展覧会を今やっていますが、河井寛次郎とかああいう人たちと一緒になって日本の民芸運動をやったのです。それは結局、いわゆる華やかで華美なものの中に美があるのではなくて、やはり自然の中からわき上がる、作為のない匠の作品、職人の仕事の中に本当の美があるのだということを彼は提唱して、それが日本の民芸運動あるいは世界的にも反響を呼んだのです。 実は一番の最後のポイントになった著書は、彼はやはりこのとなみ野が大好きで、城端の善徳寺でそれを書いています。それにいろいろな人が影響を受けたのですが、先ほど申し上げた棟方志功もその一人です。先ほどの河井寛次郎は、棟方志功のお師匠さんに当たる人です。そういう人たちを、実はこの南砺市や砺波など、富山県の人がみんなで支えて、お金のない時代にそういう運動をして、食うや食わずでいるときに一生懸命応援した人がたくさんいるのです。そういうのを、岩手県にはそういう言葉がありませんか、富山県の人は「土徳(どとく)」といいます。土に徳と書きます。(増田) 土徳。(石井) 土に徳と書いて土徳です。これはこの土地には、そういう志や情熱や熱意を持っている人をみんなで支えよう、またこの地域を大事にしようと。それはどこかで浄土真宗とつながっているのかなという気もするのですが。それから、和を尊びます。先ほど、あじゃあじゃというお話もありましたが、対立視点を対立構造にして先鋭な議論をするよりも、やはり和を尊んでみんなでこの地域を支えようと、こういうまさに土徳のある地域なのです、この砺波は。 ですから、砺波の自然、水や森ということも大切なのですが、もちろん決して神野先生に言っているのではなくて、まさに先生のおっしゃる絆なのです。そういう土徳のある地域です。これもそれを売るという言い方はいけないのでそういう良さを。ところが残念なことに、もっとアピールしろとおっしゃいましたが、浄土真宗の影響なのか、やはり富山県の人は、砺波の人は特にそうなのですが、謙譲の美徳をみんな発揮するのですね。「いやいや、大したものはうちにはないのですよ」と。それで私が今言っているのは、少しそういう意味では若干矛盾するのですが、そういう土徳や浄土真宗の気持ち、地域の力、そういうものを大事にしながら、でもやはり時にはアピールすることはもっと遠慮なしにしようではないかという運動も今やっているところです。また、特によそから来た皆さんにはよろしくお願いしたいと思います。(増田) 分かりました。柳宗悦、それから昨日も棟方志功、バーナード・リーチと、皆さんここに来ていろいろ学んでいかれたという話を聞いて、「え!」と思ったのですね。確かにあまりそういう話はお聞きしていなかったので。そういうことであれば、もっともっとPRすればいいのではないかという気もしましたし、「土徳」という言葉は今教えていただきました。 それでだいぶ時間がなくなってきたのですが、お三方、斉藤さん、丸岡さん、それから坪井さんで、ここの地域をこれからさらに良くしていくことに向けての何かヒントとなるようなこと、例えば過疎の問題何なりを、やはりこういう例があるというようなことを本当に一言ずつ、ワンポイントで結構ですけれども、お話をお願いしたいと思います。 では、斉藤さんからお願いします。(斉藤) 今回、お集まりになった方の平均年齢はどのぐらいなのでしょうね、五十何歳ぐらいなのかと思いますが。私は高校・大学、あるいは20代ぐらいの人の散居村に関する感想を聞く機会、あるいは話し合う機会を持つと良いのではないかと思いました。短く。(増田) ありがとうございました。もう少し、ゆっくり長く話していただいても。よろしいですか。 では、丸岡さん。(丸岡) 自分の反省も含めて言うことですけれども、市町村の行政、それにかかわる団体のような人たちは、ここ20年か30年ぐらいは常に何か問題を抱えて何かをやらなければいけないと、一つ終われば次、一つ終われば次、一つ終われば次という形で、いつまでどうやればいいのかという展望もなく、次々と何かをしなければいけないというような状況に陥っています。これは少し最近私は暇なので考えてみると、やはりこの辺であればいいのではないかということを自分たちで見つける、あるいは少し立ち止まってみる、そういう時間も必要かなと。今日は知事さんが先にお話しされた、人間の幸せはどこにあるかと、一番その大事なことを考えることを忘れてというか、わきに置いて、次は何、次は何というふうにやってきているような感じを受けるので、そのことはお互いに考えていければいいなと思いました。 それから、昨日から今日もですが、富山県あるいは散居村のPRといいましょうか、情報発信が足りないということが話題になりました。私が思ったのは、今の状態で富山県ではいろいろ、指標も立派なわけですし、政策の方向も出ていますから、特段情報発信をする必要はないのではないか。逆に開き直れば、「情報発信をしない」という発信をすると、かえって関心が集まるかもしれないかなぐらいのことは少し思いました。(増田) なるほど。私が一生懸命「がんばらない宣言」というのをやったのですが、あれと似たような発想ですね(笑)。 それでは坪井さん、お願いします。(坪井) 今日の議論を通じて確信的に思ったのは、進歩とか科学とか、自由な個人の確立、近代を動かしてきた言葉に実はわれわれはもうだんだん魅力を感じなくなってきているのですね。だからコミュニティーを大切にするというのはそういうことなのでしょうけれども、基本的に考え方が世の中大きく変わりつつある中で、多分今は取り残されているというふうに言われているであろう富山の過疎地などが、実は新しい魅力をたたえているのですと、完全に時代が変わるということを私はほぼ確信的に思っています。 昨日、南砺の田中市長が、われわれの分科会の挨拶で「一流の田舎をつくろう」とおっしゃいました。今日最後に市長がご挨拶されるのでそのこともおっしゃるかもしれませんが、そういう発想を持っているというのは大切なことだと私も思います。市長が豊かな未来は懐かしい過去にあるということもおっしゃっていて、そういう首長を抱えている住民はきっと幸せだろうと私は思います。 ですが、私は「行政の補助金には頼らないでください」と全国で必ず言っています。行政の補助金がなければ続かない事業というのは何をやってもうまくいかないし、ここに偉い人が並んでいるから言ってはいけないのかもしれませんが、行政は金を出せば口も出しますから、皆さんが本当にやりたいことをやるのであれば、行政に頼らないでやってほしいのです。特に散居村のようにぽつぽつあるところというのは、住民の足はどうなるのでしょうというのが私は全国で心配していて、バスがなくなり、公共交通がなくなっていく中で、お年寄りが運転できなくなっていく時代にどう対応するかというのは、これは全国ではいろいろな事例が出ていますから、ぜひ参考にしていただきたい。行政に頼らずに自分たちの足を確保するというコミュニティーバスのようなものをどんどん取り入れているところもあります。基本的な、一つ確実に言えるのは、価値観が変わって、素晴らしい、皆さんがある意味で先端を走っていることになるという点と、行政には頼らないでくださいのこの二点を私は申し上げたいと思います。(増田) どうもありがとうございました。今のコミュニティーバスの話などは、あれは朝日新聞の方に坪井さん、書いていますよね。(坪井) 正月に書きました。(増田) 調べると、パッとその記事が出てくると思います。あれは兵庫でしたか。(坪井) 兵庫です。(増田) 兵庫ですね。またそのようなものも、いろいろご参考にしていただきたいと思います。 それで本当に最後になりますが、神野先生、一言、今日のこのシンポジウムを含めてお言葉を。(神野) 分かりました。 最初に申し上げましたけれども、「住まう」ということは住み続けることだと思うのです。富山はあまり出ていっておりませんが、日本の高度成長期というのは出ていったのです。私は埼玉県ですが、埼玉県というのは住みにくさではいつもトップを独占していたのです。当時の歌でいけば「狭いながらも楽しいわが家」と言っているわけですが、もう都会は、家族が楽しくもなくなっています。そういう状態になったときに、むしろ富山で住み続けた方が、資源がたくさんあるのではないかなと思います。 一つは重要なのは、今、レアアースを中国が一生懸命押さえていますけれども、今、世界で最も重要な資源というのは生物資源と水資源なのです。中国はもう、南伊勢町などに行ってもほとんど森をぼんぼん買っています。それから、水資源でいくと雪が珍しいものですから、条例をつくらないと守りきれないぐらいに・・・、ニセコでしたね、そういう状況になっているわけです。 しかも知識産業という新しい産業に出ていくときに、知事がずっと強調されているように、重要なのは人間の資源です。一人一人の教育と、それからお互いに人間が育っていくための協力関係、この二つが決定的な要素になるのですが、富山は個々人も、後で知事がおっしゃるかもしれませんが、教育はもう断然トップクラスになっています。しかも結び付きもあるわけですから、それをうまく組み合わせれば、過疎の問題というか、下からここでも上げられるのではないかと期待しています。 いい例としてはフィンランドです。フィンランドは農業国ですけれども、工業国を吹っ飛ばして知識産業の先端産業に行くわけですが、それは農が持っていったのです。人間の結び付きをうまく利用して知識産業に変えています。ここはだから、そういう意味で、今度は逆に先端的な地域になり得る要素を持っているのではないか。系列は違うらしいのですが、例えばバイオや何かを含めて、系列が違うというのはこちらの系列ではなくてこちらの流れだと、つまり富山の方の流れだというふうに製薬は聞きましたが、いずれにしてもそういう先端的な要素はたくさんあるのではないかと思います。(増田) ありがとうございました。 お三方のパネリストの皆さま方も最後に一言ずつと言いながら、少し時間がないのでカットしたいのですが。何かぜひ、これは。 では斉藤さん、先ほどは短すぎたので。(斉藤) もう少し長くしゃべってもいいと言ったような気がするので。(増田) はい、一言だけ。(斉藤) 先ほどの若い人の意見を聞いた方がいいということの根拠は、私が昨日の分科会のときに、手を挙げていただいたときに「今、散居村に住んでいる」と言った方は12~13人いて、そのうちの「皆さんのおうちが維持されて、続いていくと思いますか」と言ったときに手を挙げた方が3~4人だったのですね。つまり3分の2は、ちょっとどうなるか分からないといった方々がいらしたわけです。ですから、そういう意味で次代を継ぐ若い人たちが一体どういう考えを持っているのか、あるいはそういう人たちにメッセージが伝わるという意味でもそういう会合が必要ではないかなと思いました。(増田) ありがとうございました。 それでは知事さんに、最後、知事さんのお立場で何か一言お願いします。(石井) いろいろな論点がありますが、幾つか、例えば今、斉藤さんから砺波の散居村を守るには熟年の方だけではなくてもっと若い人との対話も必要だというお話がありましたが、それは本当にそうだと思います。それは散居村を守るだけではなくて、例えば若い人が、富山県もやはりご多分に漏れず、毎年、高等学校あるいは大学を出ると都会に流出する人がかつて非常に多かったのです。ところが実際に、例えば富山県の高等学校を出て、大学が首都圏で、今、首都圏・東京で仕事をしているという人に、少し話を聞きたいと言われて6年前に東京で話をしたのです。 富山県というのは確かに日本海側の県ですが、今、東アジアが発展してこれからまさに日本海側が光が当たってくるのだよと。富山県には確かにいわゆる大企業は少ないかもしれないけれども、こういう分野を取ると国際的にも十分太刀打ちして、シェア80%、70%のところもあるのだよとか、それから農業だって決して捨てたものではなくて、こういうアプローチの仕方があるなどと言うと、若い人の目の輝きが変わってくるのです。それで「石井知事、そういう話は私が大学3年のときに聞きたかった」と言う人がものすごく多かったのです。 それで毎年どうしているかというと、それ以来、それまでは大学4年生がお盆で富山に帰ってきたときに、就職説明会、Uターン説明会をしていたのですが、もうこれでは遅いと、大学3年のときにこちらから東京・大阪・名古屋に出向いてUターン説明会をやっています。その結果どうなったかというと、6年前のデータはないのですが、4年前から、これはプライバシーや個人情報があるから、同窓会経由で回答してもいいという人だけ、幸いほとんど回答してもいいということになったのですが、調べて、4年前は富山県で大体高校までいて、大学を出てから帰ってこなかったという人は3400人台でした。それを毎年今言ったようなことを努力して、今、2700人ぐらいまで減りました。だから、この間に600人から700人減りました。 それはもちろん強制しているのではなくて、引き続きいろいろ富山の情報があってもやはり東京で頑張りたいという人は大いに頑張ってもらえばいいのです。しかし、だんだんそういうふうになってきました。ですからこの散居村の問題もそうですし、それから農業の問題、過疎の問題も、やはり最後はいくら行政や政治がいろいろ言っても、そこで働いて暮らす一人一人の県民・住民の皆さんが、その気にならないと駄目なのですよ。だからその気になってもらうにはやはりうそではなくて正確な情報を持ってもらうと同時に、しかし、こういうビジョンをやる、こういう可能性があると、こういうことを話すことで何とか来て、それからもちろん、皆さんが希望を持ってもらえるような政策も必要です。それは農業も、ものづくりも、いろいろな分野があります。幸い富山県はいろいろな条件が日本海側としてはいい方なのですが、これは最後は県民の皆さんとお互いに知恵を出し合って頑張っていきたいなと思っています。 今日は本当に、貴重なご意見をいろいろ頂いてありがとうございました。ご意見を頂いて、がんばらない宣言の増田さんの前で何ですが、皆さんの知恵を生かして、ご意見を生かして頑張っていきたいと思いますのでよろしくお願いします。(増田) ありがとうございました。 最後の方はだいぶ駆け足になってしまったのですが、取り立ててまとめるということもできませんけれども。私が昨日泊まったホテルに、日本語だけではなくて中国語で全部表記が書いてありました。それだけ中国の方がたくさんこちらの方に来ているのだろうと思います。今、東京の銀座にたくさんあの人たちは押しかけて、ブランド物の紙袋を持ってうんと買い物をしているのですが、実はあの人たちにアンケートを取ってみると、日本の魅力は何かというと、銀座は一回は行っていろいろなブランド物を買いたいけれども、実は銀座は上海と一緒だと。この間上海に行きましたが、上海と一緒、あるいは上海の方が前に行っている、進んでいると。上海と杭州との間に350kmの新幹線がもう走っていますから、実は上海の方がもっと東京よりも進んでいるという意識なのですね。 それで日本の本当の魅力というのは、先ほど石井知事さんのお話にあった、雪が白いとか、中国の雪は大体薄汚れて黒いですから、本当に白い雪だとか、緑の野山、それから温泉だとか、そういったまさにこういう地方にものすごく魅力を感ずるということです。もちろんそのことについての大変なご苦労もありますし、それから一方で、そこでのいろいろな工夫もなされています。そのことが次世代にとっても非常にいいものにつながれていくという環境がまさにあるのではないかと思います。ですから、富山は富山で、岩手から見ればもっとずっと先に行っているような部分もありますけれども、まさに地域地域がもっともっと頑張って、地域に誇りを持って、自信を持ってこれから進んでいくべきではないかと思います。 大変つたないコーディネートでございましたが、ご協力いただきました基調講演の神野先生、そして4人のパネリストの皆さま方、とりわけ地元の石井知事さんには大変お忙しい中お時間を割いていただきましたことを心から感謝申し上げたいと思います。どうもありがとうございました(拍手)。(司会) ありがとうございました。 では、このまままだ残っていていただきまして、お掛けしていただいて。(増田) まだそのままで。閉会挨拶田中 幹夫(南砺市長)(司会) 富山県は、あじゃあじゃで終わっていくというお話なのですが、この三日間続いたフォーラムの締めの言葉を、南砺市市長の田中幹夫さんから頂きたいと思います。 お願いいたします。(田中) 皆さん、大変お疲れさまでございました。ただ今は、パネラーの先生にもいろいろと勉強になりました。ありがとうございました。会場の皆さんも本当にありがとうございました。 私たちもこの町に住む人間として、何かうれしくなったり、市長としてまだまだいろいろ問題はあるのですが、何となく皆さん豊かそうに見えたりと思っています。 それで先ほどから「住まう」などいろいろな話を聞きますと、やはり場所文化というのが大事です。最近、私は先ほどいろいろとお話ししていたのですが、場所文化フォーラムという方々と一緒に勉強をしていて、やはりこういう住んでいきたい場所というのは場所文化なのだということ、それとわれわれの未来というのは懐かしい過去にある、これも場所文化フォーラムの人たちとの話の中で出てくるのです。これからいろいろなビジョン、ビジョンの話があるのですが、逆ビジョンというのが今後出てきて、過去へ少しずつ考え方とか、地域のコミュニティーの持ち方とかいろいろなものが戻っていく方がいいところがあるのではないかと、そういうことを実は考えています。何かすごく参考になりました。 来年、ちなみに南砺市でローカルサミットというのをやりたいと思っておりまして、こういうことにすべてがつながっていくような気がして、本当に私にとって、もちろんそして会場の皆さんにとってもそうだと思いますが、本当に参考になる素晴らしいフォーラムを皆さんありがとうございました。本当にあじゃあじゃで終わるかもしれませんが、またよろしくお願いいたします。都会から来られた方は帰って必ず、砺波、南砺、となみ野のことをいろいろ一人一人にお伝えいただくことが大変うれしく思っています。よろしくお願いします。ありがとうございました(拍手)。(司会) ありがとうございました。 三日間にわたって続けました「スローライフ・フォーラムinとなみ野 富山新時代―『住まう』を考える」は、新しい時代、スローライフ時代に向けて富山県から「住まうを提案する」ということで結論が出たかと思います。 皆さま、ありがとうございました(拍手)。パネリストの皆さま、そしてこのフォーラムを支えてくださった市民の皆さま、NPOの皆さま、ありがとうございました。これにて閉会でございます。